東野幸治、明石家さんまが「落語家を廃業した日」を克明に描いた『明石家さんまヒストリー』に驚く「こんな時あったんや」

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2020年11月22日配信開始となったYouTube動画『東野幸治の幻ラジオ』第87回にて、お笑い芸人・東野幸治が、明石家さんまが「落語家を廃業した日」を克明に描いた『明石家さんまヒストリー』に驚いていた。

東野幸治:『明石家さんまの誕生』、エムカクさんという方が、新潮社から出しました。トークショーで、新潮社のその本屋さんに行った時に、担当の方が「この本を読んで下さい、面白いですよ」って渡されたんです。これ、知ってるんですよ。

水道橋博士が、作家陣集めてね、やってるんですよこれ。色んなことを「書いて下さい」って、連載してて。その中の一つがエムカクさんのさんまさんの仕事ぶりとか、どんな仕事してるとか。何年何月に、こんな仕事したとか。インタビューでこんなふうに答えたっていう、資料として物凄く面白くて。

漫才ブームから始まって、ビッグ3になって。で、次の世代の色んなお笑い芸人さんがいてる中、明石家さんまさんが国民的人気者のお笑いスターで、一線を走り続ける中、どんな仕事をして、何を喋り、どう思っていたのかっていうのが、資料として凄く書いていて。なんか、歴史モノの、維新の物語を読むような気持ちですし、僕も知っているような紳助さんとのエピソード、水中縄抜けショーの話とか。

怖いやくざの人の直の営業に行って、「話と違うから僕は帰ります」というさんさんまさんが、いくらお金を積まれても仕事を断り、紳助さんがもう怖いから、「お金もろとこうや」っていう言い合いになった話とかね。

そういうエピソードトークもてんこ盛りにありますし、笑福亭さんまから、女性と駆け落ちして帰って来て明石家さんまになって。でも、古典落語もやりながら、テレビで人気者になって、古典落語を捨てた日のこともちゃんと書いてて。これが一番ビックリした、今回のこの『明石家さんまの誕生』。

1955年から、81年までの待望のシリーズ第一弾。「人生を明石家さんま研究に捧げた男による渾身のデビュー作」。落語から距離を置くっていうこの回が、勉強になりました。こんな時あったんやっていう、克明に。

1979年6月15日に、さんまさんは落語から距離を置くんですって。俺が小学校6年生の梅雨の時ですね。さんまさんは、大阪難波高島屋の7階にある、高島屋ホールで落語会があって。出演者が当時の桂べかこさん。ゴリラーマンでお馴染みのべかこ、今の南光さんね。で、鶴光さん、「乳頭の色は?」って聞く人ね。今のざこばさん、当時、朝丸、ウイークエンダーのね、リポーターの方。で、三枝さん、今の文枝さん。で、亡くなった桂枝雀さん。で、さんまさんの落語界。

で、さんまさんトップバッター。演目は『晩秋めぐり』っていう古典。相変わらず枕はよくウケた。テレビ出演などの近況を話し、小林繁の形態模写を演じると客は大爆笑。しかし、本題に入るとたちまち客の笑いは消えた。

舞台を降りて、控室で戻ってきたさんまは、「俺、今日で落語やめるわ」とつぶやいた、と。さんまの着替えを手伝っていた枝雀の弟子、当時、雀司、後の4代目桂文我が驚き、理由を尋ねると、「合わん、俺は東京行ってタレントになる。落語は君らで頑張ってや」と言い放った。

その言葉通り、翌日行われた落語会に出演後、さんまは落語から距離を置くようになる、と。この桂文我さんの証言が、『朝日放送創立60周年記念ABCラジオ 上方落語を聞く会』2012年1月27日にオンエアされたんですけど、こんなコメントなんです。

「その日は確か金曜日やったと思います。飛べ飛べ若手の会という冠がかぶってたと思うんですね。トップがさんまさんの『晩秋めぐり』でございました。私は昭和54年3月2日の入門でございますんで、まだ3ヶ月ぐらいしか経っていなかった。『今日はあなたがついてきなさい』と、私が師匠・枝雀のカバンを持って楽屋入りしました」と。

「さんま兄さんは、私より5年ぐらい噺家の先輩やと思うんです。枕で形態模写とか色々やって、大ウケにウケてはった。で、落語になってからピタッと笑いがおさまった。それは昨日得なぐらい受けなんだでございます。録音残っていると思いますけどね。それでまぁ、入りたてで生意気ではございましたけど、辛いやろうなぁと思いながら見てた覚えがございます」という、こんな克明に書いてて。

こういうの読むだけでも面白いし、お笑いファンの方、楽しいですよ。

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