2022年10月7日放送のTBSラジオ系のラジオ番組『問わず語りの神田伯山』(毎週金 21:30-22:00)にて、講談師の神田伯山が、三遊亭円楽とアントニオ猪木の訃報に対して沈黙を貫いていた理由を告白していた。
神田伯山:残念というか、悲しいというか。円楽師匠の訃報があって。その翌日に、猪木さんの訃報もあってってことでね。なんか色々考えちゃうけど。
なんかさ、世の中の結構、ツイッターとかでさ、関係性が少しある人が触れてたりとか するんですけど。俺、やっぱ未だにさ、俺も凄い円楽師匠にお世話になってるし、猪木さんにも一度お会いしたし、元々ファンだしっていうのであって。
でもなんか、「触れない」って喪の服し方もあるなぁってことを、最近こうちょっとつくづくなんか思うことがあってね。
なんか談春師匠がさ、談志師匠が亡くなった時にさ、一切触れない、みたいなさ。あえて言葉を発さない、みたいな喪の服し方をされて。俺、結構それちょっと分かるんだよね。なんか、ペラペラ喋るのももちろん、本当に親しいとかだったらいいんだけど。なんか「あ、そのぐらいの感じで言うんだ」みたいな感じが、俺はちょっと引っかかって。
でも、その談春師匠が一切談志について喋らないのに対して、高田先生が「談春は武士か?」っつって高田先生が言ってたの。それはそれで面白いじゃん。
でも、なんかそれ俺、ちょっと談春師匠の気持ちが少し分かって。ウチの師匠とかが仮にですよ、数十年後とかに亡くなった時に、やっぱりなんか心の整理つくまで喋らない気がするんだよね。でも、オファーあったらさ、なんか訊ねられたら、ベタなよくある「ご冥福をお祈りします」とかって言うと思うけど、好きであるとか、敬意があるとか、恩があればあるほど、人ってやっぱ口がちょっと重くなる気もするんだけど。
でも、猪木さんの弟子筋に当たる人がみんな、ブログでもなんでもツイッターでも、素敵な言葉を言ってるから、そういう考えも古いのかなって。まぁ、色んな喪の服し方があるのかなって思うんですけど。何も言わないと、バカなやつが「アイツは、円楽師匠に恩があって、口上並んでくれたのに、一言も触れねぇよ」とかさ。
「猪木さんとも会ったくせに、触れねぇよ」とか言うバカいるじゃん。それに関してはムカつくってことは思うっていう。